祖父が戦争に行った時の事を書いた手記をブログ化した大東亜戦争従軍記というブログを公開してるんですが、先々週、その祖父と祖母の17回忌をしに実家に行ってきました。

親戚が集まるの中で祖父・祖母の話題になりました。(そもそもそういうイベントか)

その時聞いた話。

酒が好きだった

これは手記読んでて余裕でわかったんですが、やはり酒好きだったそうです。父親や叔父さん達は相当付き合わされたと言ってました。

インドネシアにそのまま住もうと本当に考えていた

大東亜戦争従軍記 – ジャワ島上陸(九)

ジャワ島はじめ全蘭領東インドもまったく日本軍の手中に収まり、軍政も軌道に乗ってきたので、兵隊の中から現地除隊希望者を募った。こんな気候のいいところで一生妻子と暮らすことが出来たら、と本気で応募することになり、履歴書も出したし、マレー語の勉強も身を入れてやりだした。

手記の中でこんなことが書かれているんですが、本国の祖母はもちろん大変な状態にあり、

「ええぇぇぇ~~~!!??」

となってやめさせたらしい。

本当に水筒を取りに列車に戻ったらしい

大東亜戦争従軍記 – 帰国葛城丸乗船(六)

あまりの嬉しさに、飛び出すように降りてしまってから、水筒を車窓に忘れたことに気付き、慌てて引き返してやっと発車間際に中の人に取ってもらう始末だった。

これ、本当にあったのかなと思ったので(僕ホント最低やな)、叔母さん(その妻の腰にすがりついていた節子と同一人物だと改めて気付いた)に聞いてみると、

「浦佐駅のすごく寂れた感じ」

「たしかにギリギリで慌ててなにかやっていた」

というのをぼんやりと覚えているそうです。(手記に出てくる人物で僕が知っている中で存命なのは叔母さんだけなので聞いておいて良かった)

非常に幸運だった

大東亜戦争従軍記 – 第五章 ジャワ島上陸 アーカイブ

いよいよ明朝、蘭印政府の拠点ジャワ島へ上陸するという日、船団は二つに分かれて右と左に別行動をとり始めた。われわれの乗船隆南丸は右のコースに加わり、ジャワ島とスマトラ島との間にあるメラク湾に向かった。

手記を読んでいて、

「これもう一方の部隊だったら死んでるんじゃないの?」

という場面がたくさん出てきますが、叔父さん達に話しを聞くと、終戦後無事帰れたのも幸運で、アメリカやイギリス以外の捕虜になった人はロシアに送られたり、非常に悲惨だったそうです。

漁が楽しかったらしい

大東亜戦争従軍記 – 終戦(五)

狭い入り江に地曳き網を仕掛けて、段々しぼっていき、最後のドタン場で網を突き破るほど暴れ回る大魚をひっ捕まえる爽快感は、何とも言えないが、鯛の一匹もかからないときもあって、そんなときは全くがっかりした。

戦争の話と言えば、酔うとよく、

「農家の息子なのに何故か漁をやらされたが、面白かった」

という話をしたそうです。親父によると、

「悲惨な話はあまり聞かなかったが、この話は嫌になるほど聞かされた」

だそうです。

大量に人が殺されたり、殺したりしたことがないのでわからないですが、小説とかじゃなく、リアルに自分にそんなことが起こったら、人に話したいようなことではないのかもしれないなと思いました。

生後八ヶ月の甥をいじくり回しながら、

「こいつにとっては祖父(曽祖父)ってあったことも無いし、物心ついて知ったとしても”“先祖”“って感じなんだろうな」

などと考えていました。

祖父の手記はもちろん、祖父にギリギリ面識がある世代(僕)がどう感じたかということを書いておくことも、従軍体験者に合ったことも無い世代(甥)にとって意味があるのかなと感じたので、なるべく正直に書いておきたいです。

参照: 大東亜戦争従軍記

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